2008年 05月 13日
和歌山再発見に参加しました。
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和歌山再発見に参加した。小生は永年和歌山に住んでおりながら湯浅へは行ったことがない。母方の里が冷水浦であったことから海南、加茂郷、友人知人が有田、簑島にいたこと、仕事で御坊(息子が工専にいた)、金屋、田辺、新宮等々を走り回ったし、新宮なんざ女房殿が二年間単身赴任されたから月に一度は夜中に車で泉南から4時間ほどでぶっ飛ばしたものだ。それのに不思議と湯浅には行ったことがない。もちろん醤油の町とか紀文がでたとか、街中を熊野古道が通っているとかの話は聞いていないことはないが、よくは知らないしそんなこともあって今回星林同窓会の企画に参加してみる気になった。
当日は朝10時30分現地集合、約30人ほどの方が集まっており同期の6期からは嶋田さん、小渕さんが参加されていた。
出席点呼の上会長さんの挨拶、世話人さんの伝達事項などがあって早速出発した、ここで皆さんの出で立ちやら手荷物などを見て、だいたいどのような行程になるか判断するべきであったし、先に熊野古道を踏破した連中が新しく企画したのだからどんなことになるかぐらいは考えておくべきであった。小生はその辺がからきし駄目で誰かについていけばいいやと思いこんでカメラで付近の風景を撮っていた。
早い話が、弁当も飲み物も買わずにカメラ一丁で出発したわけである。午前中の湯浅の町探索は実に楽しかった。観光案内は次のように書かれている。
古い町並みと美しい自然に恵まれた湯浅。
細い路地に入ると懐かしい風景に出会え、夕暮れになると辻行燈が町を暖かく包みます。
湯浅湾で採れる新鮮な魚は湯浅醤油とあいまって美味しい料理となり旅の楽しみに彩を添えてくれます。
日本の食の原点ともいえる「醤油」。湯浅町は醤油発祥の地です。
また、おいしい海の味覚や、みかんなどの地元の果物、伝統的な和菓子など、「食」の魅力いっぱいです。湯浅を訪れて湯浅の「食」の魅力を探検してみましょう。湯浅町は醤油や味噌などの醸造業の発展による建物が多く残る古い町です。今でもその名残を町のあちこちで見ることが出来ます。湯浅の町並みは2006年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されました。湯浅町のなかでも「北町」「濱町」「中町」「鍛冶町」などが その特徴ある町並みの中心です。主要な通りによって出来た大きな街区の内部には小さな通り:小路があります。小路はそのほとんどを通り抜ける事ができ、大きな通りと通りをつなぐいわばショートカットの役割を果たしています。自然に作られてきた生活道路ですね。小路はそのほとんどが歩くかせいぜい自転車が通れるくらいの幅。小路を歩いていくと思わぬところに出て、それがまた、町歩きを楽しくしてくれるます。通り側にある縦に細かい格子は外から中が見えにくい様になっています。
湯浅の町を歩くと、せいろを利用して古民具や詩歌を展示した「せいろミュージアム」が、昔懐かしい連子格子の民家の軒先に展示されています。「せいろ」とはもちつきの蒸す器です。最近はその「せいろ」の出番も少なくなりましたが、この湯浅では「せいろ」を展示に利用しています
立石の道標 道町通りと寺町道りの交差点にあります。この道町通りが昔の熊野古道であり、この地点が熊野古道と高野山への道の分岐点であったことを示しています。 夜はライトアップされます。東面には頭に指で北を指した図が彫られ「きみゐでら」(紀三井寺)の文字。
北面には「すぐ熊野道」の文字。「すぐ」というのは「近い」と言う意味ではなく、「まっすぐ」と言う意味です、念のため。
南面には「いせかうや右」(伊勢・高野山は右へ)の文字。

深専寺の地震と津波の碑 嘉永7年(安政元年・1854年)11月4日(新暦12月24日)の「安政東海地震」(M8.4)とその32時間後の「安政南海地震」(M8.4)が連続して和歌山を襲いました。強烈な揺れを繰り返し、ついには、ここ湯浅地区や隣町の広村も大きな津波に襲われました。
地震発生2年後、安政三年、深専寺住職善徴上人(承空上人)の代にこの碑が建立されました。全文528文字は平易な仮名交じり文です。
碑文は、大地震の概要を記すとともに、
「昔からの言い伝えによると、井戸の水が減ったり、濁ったりすると津波が起こる前兆であるというが、今回(嘉永七年)の地震の時は、井戸の水は減りも濁りもしなかった。 そうであるとすれば、井戸水の増減などにかかわらず、今後万一、地震が起これば、火の用心をして、その上、津波が押し寄せてくるものと考え、絶対に浜辺や川筋に逃げず、この深専寺の門前を通って東へと向い、天神山の方へ逃げること」と具体的な避難経路を示し、また、言い伝えだけにとらわれないようにと、後の人を戒めたものです。
などなど、以上のような説明を先達さんから受けながら、「湯浅キャンペーン・クーポン券」で醤油店では湯浅醤油の入った見本瓶を無料で、金山寺味噌店では割引して貰ったりしながら、醤油工場見学やら町並み拝見で楽しく午前中は過ごした。
「醤油はここから積み出されました」と大仙堀の説明があり、ぼつぼつ昼飯かな、どこへ行くのかなと料理店の割引があるクーポン券を眺めていたが、だんだんと海岸沿いを岬の方へ行くばかり・・・ 「ハイ、ここでお昼にしましょう」と言われた場所は岬(栖原海岸)のとっぱずれ、岩場だらけで大阪ナンバーの軽四で来た釣り人が三人ほどいるばかり、食堂はおろか自販機もない、あるのは海の水だけ。朝からここまでトースト4枚切りの半分と野菜ジュースだけで約2時間ほど歩き通して足はやや棒状、日頃1キロ先の散髪屋へも車をだすほど歩いたことのないものが、ここまで歩いて昼飯抜きとはそりゃないで・・・と言いたいがすべては我が身から出たさび、嶋田さんが旨そうに食べている海苔巻きの鱈子おにぎりを横目で見ながら喰いもんの恨みは怖いんだぞと我慢した。さぞや恨めしそうな顔をしていたことと思う。
きっちり、昼飯抜きが嶋田さんにばれて、せめてこれでもと黒飴を三粒ほど頂き、武士は喰わねど高楊枝と情けなく洒落て午後の部の行進をはじめた(後で小渕さんからも那智黒を頂いたが山歩きの人は黒飴が好きなんやろか)。
午後からは鎌倉時代の明恵上人と言うえらいお坊さんが開いた「施無畏寺」の桜から山の上にある修行された遺蹟をまわって約3キロ2時間ほどで湯浅に戻りますとの当方にすれば気の遠くなるようなことを仰有る。ままよ、コチトラ昭和は一桁生まれ、「欲しがりませ勝つまでは」で育ち、「撃ちてし止まん・倒れて後止む」と教えられてきたんだと我が身に言い聞かせながらとぼとぼとついて歩いた。
桜(これは見事)も景色も良かったが、のぼりくだりのその辛さ、胸突き八丁尻突き五丁、息絶え絶えの足運び、なんとか上人修行の遺蹟に着いた。「ここでは360度見渡せます」とのこと、素晴らしい景観ではあったがこちらは目が回ってるぞと言いたかった。
帰りにはいつしか当方が昼飯抜きであることが御一行様にばれていて「それは大変」と行き倒れを見るように見られてしまった。武士の矜持を高くしていたつもりが恥ずかしく、「せめてこれでも」と坂道の途中でリュックからビスケットを3片、マホービンからコーヒーを紙コップについでくれた妙齢(と思う)のご婦人にお礼は言ったが名前を聞くは忘れた(残念、でも聞けると思うか)。
そんなこんなで当然のことながら湯浅駅に着いたのは最後尾のビリ。半泣きで帰りの電車に乗ったらすぐに寝込んでしまい、起きたら和歌山、乗り継いで日根野駅、こんなことあろうかと買っておいた家(これはうそである、最近移り住んだもの)に着いたのは夕方の6時半、こんなことで何か喰わせてと言ったら「アホ」の一言、何とか夕食にありついてのひとごこち、ようまあ歩けたと我がことながら驚き、湯浅で和歌山再発見も出来たが、自分がこんなにも昼飯抜きで約10キロ歩けるほど熱効率が良かったのかと自身の再発見にも気づいた。やっぱ昭和ひと桁、まもなく後期高齢者、負けてたまるかという気分であったが、翌々日からは整骨院通いとなった。
春の陽の熊野古道を横切りぬ
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和歌山再発見に参加した。小生は永年和歌山に住んでおりながら湯浅へは行ったことがない。母方の里が冷水浦であったことから海南、加茂郷、友人知人が有田、簑島にいたこと、仕事で御坊(息子が工専にいた)、金屋、田辺、新宮等々を走り回ったし、新宮なんざ女房殿が二年間単身赴任されたから月に一度は夜中に車で泉南から4時間ほどでぶっ飛ばしたものだ。それのに不思議と湯浅には行ったことがない。もちろん醤油の町とか紀文がでたとか、街中を熊野古道が通っているとかの話は聞いていないことはないが、よくは知らないしそんなこともあって今回星林同窓会の企画に参加してみる気になった。
当日は朝10時30分現地集合、約30人ほどの方が集まっており同期の6期からは嶋田さん、小渕さんが参加されていた。
出席点呼の上会長さんの挨拶、世話人さんの伝達事項などがあって早速出発した、ここで皆さんの出で立ちやら手荷物などを見て、だいたいどのような行程になるか判断するべきであったし、先に熊野古道を踏破した連中が新しく企画したのだからどんなことになるかぐらいは考えておくべきであった。小生はその辺がからきし駄目で誰かについていけばいいやと思いこんでカメラで付近の風景を撮っていた。
早い話が、弁当も飲み物も買わずにカメラ一丁で出発したわけである。午前中の湯浅の町探索は実に楽しかった。観光案内は次のように書かれている。
古い町並みと美しい自然に恵まれた湯浅。
細い路地に入ると懐かしい風景に出会え、夕暮れになると辻行燈が町を暖かく包みます。
湯浅湾で採れる新鮮な魚は湯浅醤油とあいまって美味しい料理となり旅の楽しみに彩を添えてくれます。
日本の食の原点ともいえる「醤油」。湯浅町は醤油発祥の地です。
また、おいしい海の味覚や、みかんなどの地元の果物、伝統的な和菓子など、「食」の魅力いっぱいです。湯浅を訪れて湯浅の「食」の魅力を探検してみましょう。湯浅町は醤油や味噌などの醸造業の発展による建物が多く残る古い町です。今でもその名残を町のあちこちで見ることが出来ます。湯浅の町並みは2006年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されました。湯浅町のなかでも「北町」「濱町」「中町」「鍛冶町」などが その特徴ある町並みの中心です。主要な通りによって出来た大きな街区の内部には小さな通り:小路があります。小路はそのほとんどを通り抜ける事ができ、大きな通りと通りをつなぐいわばショートカットの役割を果たしています。自然に作られてきた生活道路ですね。小路はそのほとんどが歩くかせいぜい自転車が通れるくらいの幅。小路を歩いていくと思わぬところに出て、それがまた、町歩きを楽しくしてくれるます。通り側にある縦に細かい格子は外から中が見えにくい様になっています。
湯浅の町を歩くと、せいろを利用して古民具や詩歌を展示した「せいろミュージアム」が、昔懐かしい連子格子の民家の軒先に展示されています。「せいろ」とはもちつきの蒸す器です。最近はその「せいろ」の出番も少なくなりましたが、この湯浅では「せいろ」を展示に利用しています
立石の道標 道町通りと寺町道りの交差点にあります。この道町通りが昔の熊野古道であり、この地点が熊野古道と高野山への道の分岐点であったことを示しています。 夜はライトアップされます。東面には頭に指で北を指した図が彫られ「きみゐでら」(紀三井寺)の文字。
北面には「すぐ熊野道」の文字。「すぐ」というのは「近い」と言う意味ではなく、「まっすぐ」と言う意味です、念のため。
南面には「いせかうや右」(伊勢・高野山は右へ)の文字。

深専寺の地震と津波の碑 嘉永7年(安政元年・1854年)11月4日(新暦12月24日)の「安政東海地震」(M8.4)とその32時間後の「安政南海地震」(M8.4)が連続して和歌山を襲いました。強烈な揺れを繰り返し、ついには、ここ湯浅地区や隣町の広村も大きな津波に襲われました。
地震発生2年後、安政三年、深専寺住職善徴上人(承空上人)の代にこの碑が建立されました。全文528文字は平易な仮名交じり文です。
碑文は、大地震の概要を記すとともに、
「昔からの言い伝えによると、井戸の水が減ったり、濁ったりすると津波が起こる前兆であるというが、今回(嘉永七年)の地震の時は、井戸の水は減りも濁りもしなかった。 そうであるとすれば、井戸水の増減などにかかわらず、今後万一、地震が起これば、火の用心をして、その上、津波が押し寄せてくるものと考え、絶対に浜辺や川筋に逃げず、この深専寺の門前を通って東へと向い、天神山の方へ逃げること」と具体的な避難経路を示し、また、言い伝えだけにとらわれないようにと、後の人を戒めたものです。
などなど、以上のような説明を先達さんから受けながら、「湯浅キャンペーン・クーポン券」で醤油店では湯浅醤油の入った見本瓶を無料で、金山寺味噌店では割引して貰ったりしながら、醤油工場見学やら町並み拝見で楽しく午前中は過ごした。
「醤油はここから積み出されました」と大仙堀の説明があり、ぼつぼつ昼飯かな、どこへ行くのかなと料理店の割引があるクーポン券を眺めていたが、だんだんと海岸沿いを岬の方へ行くばかり・・・ 「ハイ、ここでお昼にしましょう」と言われた場所は岬(栖原海岸)のとっぱずれ、岩場だらけで大阪ナンバーの軽四で来た釣り人が三人ほどいるばかり、食堂はおろか自販機もない、あるのは海の水だけ。朝からここまでトースト4枚切りの半分と野菜ジュースだけで約2時間ほど歩き通して足はやや棒状、日頃1キロ先の散髪屋へも車をだすほど歩いたことのないものが、ここまで歩いて昼飯抜きとはそりゃないで・・・と言いたいがすべては我が身から出たさび、嶋田さんが旨そうに食べている海苔巻きの鱈子おにぎりを横目で見ながら喰いもんの恨みは怖いんだぞと我慢した。さぞや恨めしそうな顔をしていたことと思う。
きっちり、昼飯抜きが嶋田さんにばれて、せめてこれでもと黒飴を三粒ほど頂き、武士は喰わねど高楊枝と情けなく洒落て午後の部の行進をはじめた(後で小渕さんからも那智黒を頂いたが山歩きの人は黒飴が好きなんやろか)。
午後からは鎌倉時代の明恵上人と言うえらいお坊さんが開いた「施無畏寺」の桜から山の上にある修行された遺蹟をまわって約3キロ2時間ほどで湯浅に戻りますとの当方にすれば気の遠くなるようなことを仰有る。ままよ、コチトラ昭和は一桁生まれ、「欲しがりませ勝つまでは」で育ち、「撃ちてし止まん・倒れて後止む」と教えられてきたんだと我が身に言い聞かせながらとぼとぼとついて歩いた。
桜(これは見事)も景色も良かったが、のぼりくだりのその辛さ、胸突き八丁尻突き五丁、息絶え絶えの足運び、なんとか上人修行の遺蹟に着いた。「ここでは360度見渡せます」とのこと、素晴らしい景観ではあったがこちらは目が回ってるぞと言いたかった。
帰りにはいつしか当方が昼飯抜きであることが御一行様にばれていて「それは大変」と行き倒れを見るように見られてしまった。武士の矜持を高くしていたつもりが恥ずかしく、「せめてこれでも」と坂道の途中でリュックからビスケットを3片、マホービンからコーヒーを紙コップについでくれた妙齢(と思う)のご婦人にお礼は言ったが名前を聞くは忘れた(残念、でも聞けると思うか)。
そんなこんなで当然のことながら湯浅駅に着いたのは最後尾のビリ。半泣きで帰りの電車に乗ったらすぐに寝込んでしまい、起きたら和歌山、乗り継いで日根野駅、こんなことあろうかと買っておいた家(これはうそである、最近移り住んだもの)に着いたのは夕方の6時半、こんなことで何か喰わせてと言ったら「アホ」の一言、何とか夕食にありついてのひとごこち、ようまあ歩けたと我がことながら驚き、湯浅で和歌山再発見も出来たが、自分がこんなにも昼飯抜きで約10キロ歩けるほど熱効率が良かったのかと自身の再発見にも気づいた。やっぱ昭和ひと桁、まもなく後期高齢者、負けてたまるかという気分であったが、翌々日からは整骨院通いとなった。
春の陽の熊野古道を横切りぬ





からメールが入って「奈良町を散策しよう」とのこと、修士論文の提出がすんで次のアルバイトまでの時間があるらしい。 否やも応もない、早速メールで日程を「若草山山焼き」に合わせて組み一泊で行くことになった。 コースは全部お任せ、観光用の神社仏閣(二月堂除き)は以前に案内して貰っていたので、今回は「奈良町」風景を主にした。三条通を中心とした奈良町だろうと思うが、いわゆる観光向けムキムキのお店は避けて露地にあるお店を見ることにしようと注文をつけた。 よく調べてくれて、少しでも多く案内しようとしてくれているのだが、彼我の年齢差は五十歳近く、コンパスの長さは歴然、ハンドボール部の猛者だった体育会系、ついて歩くのがやっとこさ。 「あのな▼(溜息=以下同)あんたもな▼総合職▼いずれ人と▼イヤほどつきあうで▼そんときな▼人の歩幅に▼合わさんとアカンで▼・・・」と、息絶え絶えの説教をたれての町歩き。 途中、お薦めのお店として立ち寄ったのが「相傳みたらし団子」、歩きながら食べるので1本売って貰うとしたら、おばあさんが「1本70円、3本以上でないとウチの儲けがない」とのこと、じゃ二人で4本、持ち歩くのでビニールに包んでというと、5本以上でないと赤字になると仰有る、結局6本買って包んで貰って話はわかるが理屈が見えないと大笑い、おばあさんの逞しさに脱帽。考えてみりゃ、こっちは遊びで、向こうは生活がかかってんだ、こちらの負けが当然。帰ってからふと思い出したのが約55年程前の「岩波写真文庫-奈良-」(定価100円)、昭和28年発行と言うから丁度星林卒業頃だ。それを見ると「奈良町」という町名は存在していない。つまりは最近になって作られた観光用の町なんだと言うことがわかった。あ~「奈良」も頑張ってんだ、と思った。 デジタルで200枚ほど撮ったうちの何枚かを動画風にしてみました。ま、ブログでこんなことが出来る参考までに掲載してみます。 二日目は「二月堂」と「山焼き」としたのですが、残念ながら山焼きはほとんど見えませんでした。 





